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エッセイ

息子の無事と世界平和

昨日8歳になったばかりの息子が、今日から2泊3日のスキー教室に参加している。

朝の8時に東京駅集合ということで、家族全員いつもより早起きをして家を出発。無事受付を済ませ、予定通り丸の内からバスで旅立っていった。

子どもが冬休みに入ってから、毎日一緒に遊んでばかりいたので、仕事がずいぶんたまっている。スキーから戻ると翌日は三学期の始業式なので、親にとっての冬休みは実質今朝で終了。ようやく腰を落ち着けて仕事に取り組むことが出来そうだ。

ただ、この前の夏休みの経験からいうと、明後日の夕方無事に戻ってきた息子と再会するまでは、思ったほど仕事ははかどらないかもしれない。

先の夏休み、息子は今回と同じく2泊3日の日程でキャンプに参加したのだが、見送ってから帰宅するまで、元気にやっているか、怪我をしていないか、ご飯は食べているか、と普段なら気にしないような心配事が後から後からわき出てきて、まったく仕事が手につかなかったのだ。

あまりの心配ぶりに妻はすっかり呆れていたし、自分でもどうかしているとは思ったのだが、そう簡単に気持ちが落ち着いてくれない。

仕事柄出張も多いので、息子と離れた場所で寝泊まりということは、それまでもしょっちゅうあった。

だが、いままでは家を離れるのは自分で、息子は妻と自宅にいるというパターンだった。連絡も簡単に取れたし、フェイスタイムで顔を見ることもできた。離れてはいても、要所要所で様子を確認できるので、多少寂しくはあっても、安心は安心だった。

だが、夏のキャンプや今回のスキー教室の場合は、家を離れるのが息子の方で、そばに妻はついていない。引率してくれるインストラクターがいるとはいえ、言葉は悪いが所詮は他人。しかも、面倒を見なければならない子どもは他にも大勢いるので、息子を最優先でケアしてくれるわけではない(また、そうであってはならない)。イベントの主催者を信用しているからこそ息子を参加させてはいるのだが、正直なところやっぱり不安だ。

無事かどうか電話で確認したいという欲求が幾度も頭をもたげたが、さすがにそれは迷惑だろうし、客観的に見れば過保護で心配性の親のエゴイスティックな行動でしかないことはわかっていたので、実行に移すことはなかった。

こんな風に悶々とした気持ちで過ごす中で、何度かこんなことを考えた。わずか3日、いや初日の朝から3日目の夕方までなので、時間にするとわずか58時間様子がわからないだけでこれほど切ない気持ちになるとしたら、仮に日本がどこかの国と戦争を始めてしまい、息子が出征してしまったら、どれだけ苦しむことだろう、と。

夏のキャンプに冬のスキー教室という平和そのもののイベントに参加していながら、これだけ落ち着つかないのだから、息子が戦場に駆り出され、しかもいつ帰ってくるのか分からないという状況になったら、自分ははたして正気を保てるのだろうか。

戦争を体験したことはないけれど、戦場に赴く兵士も、その帰りを待つ家族も、とてつもなく辛い思いをすることは容易に想像できる。

やっぱり戦争だけは絶対に起こってほしくない。戦争は絶対に反対!

かつて、井上ひさし氏は、「平和を守る」という、美しいけれども使い古された言葉を「普通の人々の暮らしが穏やかに続く、少しでもよりよく続く」と言い換えたが、本当にそのとおりだ。

スキー教室に参加した子どものことを心配するのは、不安とはいえ「普通の人々の暮らし」の一部だ。これからも、この程度の事でどきどきはらはらできる、穏やかな日々が続くことを切に願いたい。

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