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エッセイ

今が一番かわいいとき

先日、取引先の部長とタクシーに相乗りする機会があった。話題が子どものこととなり、息子の年齢を聞かれた。

「小学校の二年生です」と答えると、部長が間髪を入れずに言った。

「二年生ですか。今が一番かわいいときですね」

息子が生まれて七年半のあいだに、この「今が一番かわいいとき」という言い方を何度かされた。ただ、これまでは必ずその場に息子がおり、目の前で遊んだりおしゃべりしたりする息子の姿を見ながら、「いやあ、今が」となるのが常だった。

ところが今回は違う。息子はこの場にはいない。部長は息子に会ったことはなく、写真を見たことすらない。

そうなると部長は、息子の姿ではなく「二年生」という言葉に反応して「今が一番かわいいとき」と言ったことになる。

どうして部長は「二年生」に反応したのだろう。

私が知らないだけで、世間では小学校二年生ぐらいが一番かわいいというということになっているのだろうか。

それとも、部長の個人的な体験に基づく意見なのだろうか。

頭の中でそんなことを考えながらも、私の口をついて出たのは極めて平凡で当たり障りのない台詞だった。

「部長のお子さんはおいくつなんですか」

「三人いて一番下が高校生。一番上の長男は二十四です」

「ご長男はもう社会人?」

「いや、大学院なんですがね。これが、まるでかわいげがなくて」

「はははは」

「いい加減出て行ってほしいんだけど、全くその気配もないんですよ」

「ははは……」

まず間違いなく冗談だろうとは思ったが、ちらりと見た横顔には商談中に見せたことのない硬い表情が浮かんでいる。

「顔を合わせるのもいやでね……。本当に……」

「……」

「……。でも、そんな奴でも小学校低学年の頃は本当にかわいかったですよ」

部長本人もこういう展開になるとは予想していなかったのだろう。声に戸惑いの色が感じられた。

部長の話が冗談でないことははっきりした。が、そうなると余計にかける言葉が見つからない。仕方がないので曖昧にうなずきながら、景色を見る振りをして顔を背けた。

やや間があって、部長が再び語り始めた。

「中学受験をさせたのがね……。まずかったんでしょうな……」

「なるほど……」

「ああいうのはのめり込むと抜けられないですからね……」

私自身中学受験の経験者だが、「のめり込むと抜けられない」というのがどういう意味なのか、よく分からなかった。ただ、中学受験を機に部長とお子さんとの関係に大きな変化が生じたことは理解できた。そして、その変化が、少なくとも部長にとっては好ましい変化でなかったことも。

部長の「二年生ですか。今が一番かわいいときですね」は、幼い頃の我が子と、我が子のことを心からかわいいと思いながら過ごしていた自分自身とを、痛切な後悔の念と共に懐かしむ言葉だった。

これからのことは誰にも分からない。私と私の息子の関係が変化するのかしないのか。するとしたらどう変わるのか。神のみぞ知るだ。

だが、今日のこの部長のような後悔だけはしたくない。よその子を見て、取り返しのつかない過去を悔やみながら、「今が一番かわいいときですね」なんてつぶやくのは真っ平御免だ。絶対に、絶対に、い・や・だ!

会話の途絶えたタクシーが目的地の新大阪駅に着くまで、そして、新大阪駅から一人新幹線に乗りこんだ後も、ずっとそのことばかり考えていた。

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