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エッセイ

作品A「組市松紋」——受け入れますか、拒みますか

先日、仕事である会社を訪問したところ、先方の課長さんが「この時期は新入社員の受け入れで、ホントてんてこ舞いですわ」とこぼしていた。

話のテーマは新入社員ではなかったのだが、社外の人間に、ついそんな風に訴えたくなるほど苦労されているのだろう。

「いやぁ、それは大変ですね。どこの会社さんでも新入社員、特に新社会人の受け入れは一苦労ですよね」

そんな風に受け答えをしながら、「受け入れる」という言葉について、こんなことを考えた。

自分が受け入れるという言葉を使うのは、大概、受け入れがたいものを受け入れるときだな、と。

もちろんこれは、「受け入れる」という言葉を使うときの自分の傾向、あるいは癖のようなものであって、これがこの言葉の本来の用い方だというつもりはない。

が、先の課長さんの発言の裏にも、この忙しいのに新入社員の世話などしたくない、できれば避けたかったという本音が透けて見えるような気がした。

そんな出来事があった後、帰宅してテレビを見ていると、東京オリンピックのエンブレムが決定したというニュースが流れていた。

予め公表されていた最終候補作4作の中から、21人のエンブレム委員が投票によって選んだのは、皆さんご存知の通り、作品Aの「組市松紋」だった。

「えっ? うそ……」

正直、この結果は意外だった。

どれになるかはわからないが、選ばれるのは作品B、C、Dの中のどれかだろう。少なくともAが選ばれることはあり得ない――これが、候補作が公表されたときの私の予想だった。

デザインに関してはまるで素人なので、各候補作の良し悪しはわからない。いや、良し悪しでいえば、最終候補に残ったぐらいだから、みなそれなりに良い作品に違いない。

だが、素人の私には、作品Aはあまりにも地味で、オリンピックという華やかなイベントのエンブレムとしては(4作品の中では)最もふさわしくないと思えた。

そう思ったのは私だけではないはずだ。候補作が発表された直後のニュースや情報番組を見る限り、少なくとも一般市民の反応としては、Aを推す声が一番少なかったように思う。

オリンピックにもエンブレムにも自分の利害はいっさい絡んでいないので、別にどれになろうと構わないといえば構わない。

でも、せっかく地元東京で行われるオリンピックなのだから、エンブレムも愛着を感じられるものであってほしい。

そう、正直に言わせてもらえば、Aには愛着が湧かないのだ。

だが、私がどうあがこうが東京オリンピックのエンブレムは作品A「組市松紋」に決定したのだ。この事実は変えられない。

変えたくても変えられない、拒みたくても拒めない――私が「受け入れる」という言葉を用いるのは、まさにこういう状況においてだ。

例を挙げてみよう。いずれも○のついた言い方は(私にとっては)自然だが、▲の方には不自然さ、もしくは違和感を覚えるという例である。

○(予想に反して選ばれた)作品Aを受け入れる。
▲(予想通り選ばれた)作品Eを受け入れる。

○失敗を受け入れる。
▲成功を受け入れる。

○親の死を受け入れる。
▲子どもの誕生を受け入れる。

○癌の宣告を受け入れる。
▲「異常なし」という検査結果を受け入れる。

○新入社員を受け入れる。
▲親会社から新社長を受け入れる。

そういう表現ばかりを選んでいるだろうと言われれば確かにそうなのだが、やはり「受け入れる」という言葉は「正直言うと受け入れたくない事柄、拒みたい事柄」と組み合わせた方が自然な感じがする。

こう書きながら、いま気づいたことがある。

それは、「元々は拒みたいこと、受け入れがたいことであっても、一旦それを受け入れられれば、精神的には穏やかな安定した境地に至る」ということだ。

失敗にしろ、親の死にしろ、癌の宣告にしろ、それを拒みたいと思っているうちは苦しいだけだ。状況は変えられないのに、「そうでなければいいのに」と願い続けたところで、その願いがかなうことはない。かなわない願いを願い続けるのは辛いだけだ。

きっかけは何であれ、それを受け入れることができたら、人間は前に進める。晴れ晴れとした気持ちにはなれないかもしれないが、少なくとも、変えられないことを変えたいとあがく辛さ、苦しさ、空しさからは解放されるだろう。

もちろん、無理に好きになったり、ポジティブに受け止めたりする必要はない。何であれ無理をすれば、自分が苦しいだけだ。

勢い込むことなく、穏やかに、「そうなのだ」「そうなったのだ」と素直に認めればいい。

やがて、拒もう拒もうとしていたときには見えなかった何かが見えてきて、以前とは異なる心境で対象と向き合うことができるだろう。

エンブレムも然りだ。

「えっ、これなの?」といつまでもぼやくのではなく、「そうかAになったか」とまずは受け入れることにしよう。

そんなことを考えているうちに、今から4年後、6年生になった息子と国立競技場でオリンピックを観戦しながら、「それにしても、このエンブレムいいよね」などと語り合っているシーンが想像されてきて、何だか嬉しい気分になってきた。

どうやら私の中で、「組市松紋」の受け入れプロセスが始動したようである。

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