私はフリーランスでいくつかの仕事を掛け持ちしているが、現在のメインの仕事は企業研修の講師だ。ただし、自分で営業や集客はやらず、業界大手R社から業務を受託している。
講師として大切にしていることはいろいろあるが、そのうちのひとつに「会場には受講者よりも先に入る」がある。
特に研修初日は準備すべきことが多く、最低でも1時間前には会場入りするようにしている。
今朝も研修開始時刻が10時だったので、9時には会場に到着するようホテルを出た。
といってもホテルの部屋を出たのは8時55分頃。出張の際は特別の事情がない限りいつもそうするのだが、会場から最も近いホテルに宿泊することにしているからだ。
ホテルと研修会場は大きな通りをはさんで向き合っており、移動時間5分のうち、大半はエレベーターの待ち時間や信号の待ち時間という近さである。
特に今回は宿泊したホテルのクオリティもなかなかのもので、研修会場に到着した時には、自分の立てた計画の完成度を自画自賛したいような気持ちになっていた。
モチベーションが少し上向いたのを感じながら、さっそく準備に取りかかろうと思ったのだが、入り口のドアノブに「研修会場に入れるのは30分前から」といった内容の札がかかっており、中に入ることができない。
開始前の準備が慌ただしくなるとは思ったが、てきぱきやれば30分で準備出来ないわけではない。そもそも30分前まで入場させないというのはこの施設のポリシーだろうし、先方(今回研修を導入していただいたお客様)はそのことを承知の上でここを会場に選んだはずだから、まあ、心穏やかに待つことにしよう。
いつもこれほどものわかりがいい訳ではないのだが、なにしろ自画自賛したくなるほど心が浮き立っていたので、予定通り1時間前に入室出来ないからといって、何の不安も、不満も感じることはなかった。
さて、そうこうするうちに時刻は9時30分。研修開始30分前である。係の人が部屋の鍵を開けに来てくれるのかと思ったが、どうもその気配がない。
ここで初めて少し不安な気持ちになって、施設事務所を訪ねる。
「すみません、ミーティングルーム2Aで研修予定のものですが」
「はい?」
「ミーティングルーム2Aで研修予定の……」
「えっと、うちにはミーティングルームという名前の部屋はないんですが。カンファレンスルームA—2ではありませんか?」
「あ、そうなんですかね。手許の書類にはミーティングルーム2Aとあるんですが」
「失礼ですが、会場はこちらで間違いございませんか?」
これはまずい。私は直感的にそう思った。
部屋の名前はどうでもいいが、この時間になっても係の人がセッティングに向けて動き始めていないということは、今日この会場では10時スタートのイベントが何も予定されていないということに違いない。
「あの、これはこちらの住所で間違いはないでしょうか?」
私はR社にもらった書類を女性の担当者に見せた。
「住所は間違いなくこちらですが、でもおそらく研修が行われるのは、駅の東口側にある私どもの系列の別の施設だと思われます。そちらにはミーティングルーム2Aがありますので」
な、な、なんと、会場が違う!?
先ほどまでの自画自賛モードは雲散霧消し、半ばパニック状態に。
すぐに電話で確認してもらったところ、やはり正しい会場は東口の方だった。
「で、ここからはどう行けばよろしいんでしょうか」
「はい、駅の反対側に抜ける近道があるんですが、ちょっと説明が難しいので、途中までご案内いたします」
え?
係の方のこのセリフに思わず耳を疑った。
どう行けばいいかという私の質問に対し、普通なら、口頭でできるだけわかりやすく説明したり、地図を渡したりといった対応をするのではないだろうか。
こちらとしても、そういう対応をしていただければ十分だし、それだけでもありがたい。
ところが、目の前のこの女性は、途中までとはいえ案内してくれるというのだ。この女性にも研修施設にも何の落ち度もないのに。
研修開始時間が迫っていることもあり、お言葉に甘えて案内していただくことにした。
もうここまで来れば後は誰でもわかるという地点までの約5分間、女性は迷惑そうな素振りを見せるどころか、いかにも申し訳なさそうな表情を浮かべながら、地元の地理に暗い私を案内してくれた。
窮地を救っていただいたことへの感謝の気持ちと、期待を超えた応対を当たり前のように実践する女性担当者への敬意——自画自賛から不安へ、不安から驚きへという、今朝のめまぐるしい心境変化の締めくくりは、普段滅多に感じない清々しい思いであった。
(その後の調査で、R社の担当者のミスで私にだけ誤った情報が伝わり、受講者には正しい情報が伝わっていたことが判明した)