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エッセイ

誕生日を奪われる幸せ

今日は53回目の誕生日だった。

子供のころの私には、誕生日が特別な日だという意識が薄く、1年365日のうちのごくありふれた1日という気持ちですごすことが多かった。

もちろん、「おめでとう」と言われれば「ありがとう」と答えたし、プレゼントをもらえば自然と感謝の気持ちが湧いてきたが、だからといって誕生日の到来を指折り数えて待つような子ではなかった。

私立中学に入り、親元を離れて下宿生活を送るようになると、誕生日は完全に「ごく普通の1日」と化してしまった。友人同士で生年月日を交換していたわけではないし、下宿で特別なご馳走が出されるわけでもない。今日が私の誕生日であることを知っている人は周囲に誰一人いない。

さすがに親は手紙を送ってくれたが、「体に気をつけなさい」とか「がんばりなさい」といった言葉が中心で、正直なところ思春期の自分はそういう手紙をもらっても嬉しいとは思えなかった。

以後、ずいぶん長いこと誕生日を祝う習慣から遠ざかることになるのだが、社会人になり現在の妻と交際するようになってからは、さすがの私も世間並みに誕生日を特別な日と認識するようになった。

何しろ、こちらに関心がなくても向こうの方から「お誕生日どこに行く?」とか「お誕生日どこで食事する?」と聞いてくれるのだから。

だが、妻と2人で過ごし、ほのぼのと幸せを噛み締める誕生日もおよそ20年で終わりを迎えることになる。

離婚したわけではない。48歳になる年に息子シオンが生まれたのだ。

シオンが0歳のときは、まだ妻と私の2人の誕生日だったような気がする。が、1歳になってからは私の誕生日でありながら主役の座は完全にシオンに奪われてしまった。

シオンが5歳の今年もそれは同じだ。バースデーケーキはシオンが選ぶ。無論、彼の選択基準はパパが好きなのはどれかではなく、自分が食べたいのはどれかである。

夕食のテーブルにはシオンの好物が並び、それを前にしたシオン曰く。

「やっぱり誕生日っていいね」

食後に例のバースデーケーキが登場すると、シオンがローソクを5本突き刺す。

「パパは53歳だよ。あっ、もしかして本気で自分の誕生日だと思ってる? いや、さすがにそれはないよね」

部屋を暗くして、ローソクに火をともす。同時にシオンと妻がハッピーバースデーを歌いだす。途中でどう歌うか注意して聞いていたが、ちゃんと「ディア・パパ」と言っていた。

「ああ、やっぱり自分の誕生日でないことぐらいわかってたんだ」

歌が終わってローソクを吹き消そうとすると、シオンが「パパ、オレが消す!」と言って口をすぼめた。

「ああ、いいよ」と私。子供はこういうのが好きだから。

「ふぅっー、ふぅっー」とシオンが4、5回強く息をふきかけると、すべての火が消えて再び真っ暗に。

そのタイミングを見計らって、妻がパチパチと手をたたきながら叫ぶ。

「お誕生日おめでとう!」

私がお礼を述べようとしたその瞬間、シオンの大きな声が部屋に響きわたる。

「みんな、オレの誕生日を祝ってくれて、ありがとう!!」

ああっ! やっぱり自分の誕生日のつもりなんだ!

その後、ケーキのおいしいところ(上にのったクリーム、フルーツすべて)はシオンが独り占めし、私はデコレーションケーキのスポンジ部分を少しだけ分けてもらうことができた。

でも、気分は最高にハッピーだ。

こんなひょうきんな子が自分の息子だなんて、神様にいくら感謝してもしたりない。

私の誕生日に大はしゃぎするシオンの笑顔。今の私に、これ以上のプレゼントはない。

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